からだとあたまからこころまでほぐす、セラピストAsacoの日々の徒然。

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こころがちょっと疲れた時に、からだが不調を感じる時に。
ひだまりのようなひとときを。

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2014年9月16日火曜日

三回忌

弟の、三回忌を迎えた。
突然、逝ってしまってから、二年。
「もう」のような、「まだ」のような。
あっという間の二年間ではあったのだけど。
それ以前の出来事が、ものすごく遠くに感じたりする。

こうやって、家族が誰も欠けることなく三回忌を迎えられる、
ということは、ありがたいことなんですよ、みたいな事を
僧侶から言われて、ああ、ほんとうにその通りだな、と思った。
これから7回忌、13回忌…と、時が経った時、
もしかしたら、今いる人が居ない可能性もあるんだ。

そうなった時はもちろん、悲しみに襲われたりもするだろうけど。
もう、教えてもらったから。
思えばそこにいることを。
いつでも共にあることを。

喪ったのはこの世の姿。
その思い出は、ずっと胸にあるのだから。

それ以前には戻れないけど。
それがあって、今があって、ワタシがいるのだから。
そんな自分をまるっと受け止めること、慈しむことは、
ワタシの身体をを現世の宿として存在している魂を、大切に扱うことにもなり。
ワタシの感情を経て受けた経験を、包み込むこと。
そうして、また違う世代に生きる魂へと、引き継がれる。

だから、ただ、今、この時を共に過ごせることを、ありがたく、感じてゆきたいと思う。

2014年9月13日土曜日

カルマヨガって

他者をケアすることことは、自分をケアすること。

自然を慈しむ事は、自分を慈しむ事。

部屋を掃除する事は、自分をきれいにする事。

全ては一緒、ってそういうこと、なんだと思う。


最近、カルマヨガ(奉仕のヨガ)がもたらすものってなんやろう、って漠然と思ってて。
朝、電車の中でヨーガスートラ読みかけた時に、ふわっと、浮かんできた。



そこに見返りや、結果を求める必要はない。

それは、行いと同時に、既に達成されるものだから。

しまんと

2014年9月9日火曜日

久高島

2012年12月初旬。
夫の那覇マラソン大会に、応援でついていった。
雨の降りしきる中でのマラソン大会。
応援といっても、スタートとゴールにいるだけで、残りの時間はひとりで那覇の町を散策。
弟の死から、3ヶ月。
ゆっくりと、日常から離れた時間を過ごした。

マラソン大会の翌日は、物凄く良い天気になり。
那覇から2時間でいける小さな島、久高島に行った。
沖縄の神様が最初に降りて来た島だそう。
自転車で端から端に行けるような島。
レンタサイクルを借りて、のんびりと。
途中で足を止めて、低木林の間をくぐって海岸に行こうとした、その時。

周りの木々に囲まれて、ほろほろ、と涙があふれてきた。
なぜだろう。ワタシという存在が生きている事を、赦されたような、そんな気持。
周りの木々たちが、そのままで、いいんだよ、と言って包まれたような、そんな心地がした。
生命と、優しさに溢れている木々達。
神様が、宿っていたと思う。

岬に絶え間無くやってくる波を見て、ああ、全ては生きているのだ、と肌で思った。
ワタシが立っている、この地ー地球も。息づいているのだと。
生きとし生けるもの、全て何も違わない。

岬で弟の事を、思う。
ニライカナイにつながっているという、岬で。
弟は、そこにいてるんかな、と思う。

家に帰って、弟の遺影の前で、初めて笑うことが出来た。
やっと。

涙だらけの悲しい顔より、笑顔の方がいいよね、まーくん。
久高島より

2014年9月8日月曜日

2012年11月19日〜前を向きはじめる

友人の誕生日パーティをした。
以前のように会話の端々に弟の死への思いを散りばめるような会話はしなかったけれど、
やっぱりテンションが、ちょっと違ってて、妙に高い。
その反動が、ちとしんどい。
久々に飲み過ぎたのか、食べ過ぎか。夜中に、消化出来ないものを、吐いた。

翌朝、歩いてる自分が、ずっと伏せ目がちであるいているのに気付いた。
そして突然、ふいに思った。

弟にはもう誕生日は来ない。
もう来ないことを、ワタシは知っている。
でもワタシ自身が、いつそうなるかなんて、わからない。

きちんと。
まっすぐ、前を向いて歩こう。
目の前にある、歩みを丁寧に歩いてゆこう。

今を丁寧に、楽しいことをたくさんにして、良きことを大切にして、生きていかないと。
明日の喜びにも繋がらない。
今の喜びを紡いで行こう。


食べるという行為において、人は皆同じだ。
年齢も、肩書きも、偉いとか、偉くないとか、金持ちとか、貧乏とかも関係ない。
排泄とかも、そうよね。
動物が、生きている限り、行なう行為はすべて同じだ。

死もまた、平等だ。
どんな人にも、動物にも、この世に生きているものには、すべからく平等に、死はやって来る。
そういう、ものなんだ。

2014年9月7日日曜日

2012年11月〜揺れ続けながら

2012年11月の日記。

11/2
すべてに対して、きちんと丁寧に向き合って、やさしくなろうと、思った。
ヨーガ哲学が、何かが少し、変わるきっかけになった。
朝の光。照らされた人々の背中。全てに、神様が宿っている。
久しぶりに、本当に久しぶりな、穏やかな気持ち。
弟の事があってから、本当に。

どんなひとにも、ものにも、丁寧に向き合いたい。そう思う。
全てに、彼の魂が、宿っている。


11/4
久々のテニス。
とても素敵な空の下で、ほがらかに笑ったとき、
ふと、涙が出そうになった。
弟は、もうこんなふうにできないんだな、というせつなさ。
ワタシは、こうやって、わらっていられる、ありがたさ。

たくさん、泣いて、たくさん、笑おう。
周りの人を照らせるように。
亡くなった者ができなかった分まで。
そのひとの代わり、にはなれないけれど。せめて、そのことを胸に抱いて、自分の人生を生きていこう。

人は日々生まれ変わっている。
昨日までの細胞は死に、今日また新たな細胞が生まれている。
ならば、昨日のワタシと今日のワタシは、違うワタシ。
何もかもが違ってしまった経験をしたけれど。
他の人にはわからないけれど。きっと、すっかりどこかが変わってしまったのかもしれない、と思う。
でもその一方で、弟の死から、ひとつも学習も糧にも出来ていなくて、
何にもわかってなくて、全く成長していないんじゃないかな、とも思う。


11/6
誰かの評価とか、何かに追われて忙しくするとか、予定をいっぱい詰めるとか、もういらない。
大切なひとと、大切なものを抱いて、自らを、慈しみながら。
やりたいことを、やりたいように、そして、思い通りにしようとせず、ただ委ねるだけ。

どこかにも書いていたが、皆他人の死には、無関心だ。
すぐに忘れる。忘れようとする。
自分のところには、来ないと思っている。
ワタシも、そう、思っていた。
いつかは死ぬ、とあたまではわかっているつもりだったけど。
家族の、肉親の死の悲しみが、もう収まっているようにみせてるから、
もう収まってしまったのだと、思われても仕方ないけど。


11/12
自堕落な一日だった。自分で自分が嫌になる。
こんなこと、止めよう。
自分にとって、全然良くない。自分が、かわいそうだよ。

誰かと会う約束もめんどくさい、と思っていたけど、
気遣ってくれてると思ったので約束したら、どうやら
もうひとり誘ったらしい。余計、行くのが面倒になる。
全然、弟の死のこと知らない人とごはん一緒なのはしんどい…
その辺りわかってくれてると思っていたけど、私の勘違いだった。
勿論、わかってくれるかもなんていうのは、私が伝えていないのだから、難しいし当たり前やねんけど。

というより、やっぱり私の心境が、変わっちゃたんだな。
私からこの人を誘う事は、もう無いかもしれない。
離れてしまうかもしれないな…
貴重で、大事な友達だったけど。

…でもこれは、前からの予感があったこと、よね。
ああ。
この落ち込みを、弟に対する悲しみのせいにしているね、私。
ごめん。

でもどうして、もう弟と会えないんだろう。
でもどうして、もう弟はいないんだろう。
最近思うのは、そんなフレーズの繰り返し。

土曜日に見た夢は。
妹なのに、弟に見える夢だった。
タクシーに乗っていたのが弟で。
でも、それが眼が幻影だと自覚していて。
首のネックレスに気がついた瞬間、本当は妹であるということが判って。
でも、また弟にしか見えなくて。
でも、まあそれでいいや、と思う夢。

それを見てから。
また、弟に会いたいな、と思う。


11/16
今週は、ずっとブルーだ。自分の心が閉じて落ちてる。
こういう状態の時、弟のことを考えるのは苦しい。
どうしていなくなったんだろう、の思いだけが空回りする。
多分、ホルモンバランスが悪い、PMSかもしれない。
食欲もおかしいままだ。食べ過ぎ、飲み過ぎ。
何をやるのも、めんどくさくて、何でこんなことやらなくちゃいけないんだろう、と思う。
駄目だ。今のワタシ。
何もやる気がしないのに、何もしてないとそれが嫌になる。
昔の、やる気ナシコなワタシに戻った感じ。
変わってないんだな…。
弟が、こんな事になったのに。
もっと大事に生きたい、という思いと、
どうでもいいと思っているワタシ。
今までやって来たことを活かさなきゃ、という思いと、
でも、これだけの為にやってきたことではないよな、という思いと。
揺れ続けながら、ふぃと思い出し、噛みしめるフレーズ。

ただ、心静やかなままに。
行為の結果を求めず。
ただ、行為するのみが、全て。

2014年9月6日土曜日

四十九日

何もやる気が起きなくて、でもごはんを何とか作っていたのに、
夫がごはん要らん、やったので、作ってしまった里芋サラダだけ食べて、
後は何の気力も起きなくて20時前には布団に入った。
懇々と眠って、朝5時に起きた。
夢は見ていない。

周りから、取り残されたような気持ち。
誰もがみな進んでいる。楽しそうに。
けど、9/16から進もうとしてもがいていたけど、
振り返れば全然進んでいなくて、止まっているままの私。

四十九日の行事をやったけど、それが何?って気がする。
何も変わらない。
むしろ、これからがしんどいのだろう、と思う。

ほろほろほろ泣いてしまった、四十九日のお経のとき。
もう、行っちゃうんだ。本当に行っちゃうんだ。
今まではこの世に漂っていた気がしたのに、本当にいなくなるんだ。
なぜか、そう思ってしまって。

なんで弟だったんだろう。
今更、ぶりかえしてくる。

張り詰めていた気が、伸びてしまったゴムのように緩んだように。
前に進む気を失って何もする気がなくなった。

「家族を失ったあなたへ」という本には、
子供を亡くした親について、
親を亡くした子について、
幼い、あるいは思春期までのきょうだいについて、は書いていたけど、
成人になって、14才も離れた、若い弟を失ったきょうだいについては、書いていない。
そらそうだ、そんなパターンはめったにない。
自分で、向き合うしかないのだろうね。

2014年9月5日金曜日

2012年10月後半〜悲しみと向き合う日々

2012年10月日記、続き。

10/18
弟の遺体に触れた時、死を身近に感じた。
確かに、彼に触れた時、冷たくて冷たくて。
眠っているみたいなのに。

自分で洗ってあげられたらよかった。
でも、どこかで躊躇したのは、そういう行為が身近に、習慣としてないから。

遺骨や遺物を大事にする、というのは日本人特有のものだそう。
死体(物としての)となり、遺体となり、死者(生き返る者)となってやっと受け入れられると。
まだよくわからないけれど、確かに。
彼が使いかけだった、コンタクトレンズの洗浄液を使った。
使い終わったけど、そのボトルは捨てられない。

何もかも虚しく思う。
ごはんが美味しくないわけではないし食べてるし、お腹も多分、空いている。
でもそこに余り執着していない。

死生学についての本を読む。
弟の死は、命を落としたのは弟の業によるものなのか。
ワタシが、弟の死という苦しみを負うのは、ワタシの業によるものなのか。
前世から続く業…でなければ辛すぎる。この世の業には思い当たらない。


10/23
彼から学ぼうとすることだとか、
グリーフのことや死生観が深まっただとか、
前向きなことを思おうとしているけれど。

どこかでそんなもん、学びたくなかったと思っている。
彼が戻ってくるのなら、そんなもん、どうでもいいと思っている。

地団駄踏んで、戻ってくるもんならば、なりふりかまわずやっている。
頭の中で、大声挙げて叫んで泣くワタシを思い浮かべる。

でもどうしようもないじゃない。
それで戻ってくるわけではない。

ただ、だから必死で、そこにしがみついているだけ。
冷静であるために。生きてゆく為に。
彼が死んでしまった事に、変わりはないのなら。
その死のせいで駄目なったりしないように。
彼の生きた証を胸に刻んで、彼の死を何らかの形で生かすために。

ひたすら本を読む。
この気持ちを、解ってくれるものを探すために。
なんとか「普通に」生きてゆくために。

私が生きてきた中で、おそらく一番辛い出来事だ。
自分よりはるかに若い、きょうだいの死。

みんなは、普通に、日常を生きているだけなのに、
なんて楽しそうに見えるのだろう。
あんな風にはできないのに、
どうして、私は普通に笑えるようになったんだろう。
あんなことがあったのに。


10/24
家族の他の者と比べて、私は冷静なのか。冷たいのか。鈍感なのか。鈍いのか。
悲しみが浅い様な気がする。
普通の生活にも戻れてる。
ご飯も食べにいける。
しっかりしなきゃ、と思っているからなのか。
今は無理してるのだろうか。
後から悲しみがふいに襲ってくるのだろうか。
それともこのまま徐々に馴れてゆくのだろうか。

前向きであろうとする言葉は、口にするとまだ薄っぺらいけど。

あの、焼き場に行く時に、眼と額のあたりに感じた、ぽかぽかと陽だまりのような暖かさを思い返す。
雨でひんやりとした空気に包まれていたのに、そこだけは暖かかった。
泣いた為に、そこだけ熱を持っていただけなのかもしれないけれど(そこまで泣きはらしてはいなかったけど)。

でも、あの時、確かに弟はワタシに力をくれてたのだと思う。
代わりに家族を、僕の為に来てくれた人たちのことを、しっかりと、見てあげて、と。

彼、もうあの身体には居ないとはっきりと感じて、受け止めていた。
彼の魂のぬくもりが、ワタシの目のあたりに漂っていた。
だから、焼かれてしまう時、冷静でいたのだと思う。

あれを感じたからなのだろうか。
今のワタシが、思ったより早く立ち直っているのは。

思いもよらなかった、身内の突然の死、というものは。
無理やり、じぶんのこころを半分以上、
もぎとられてしまったようだ。

あまりにいきなりすぎて、ショックのあまり、
その瞬間は痛みを感じていない事さえある。
もぎとられたその傷口は、肉や骨がむき出しになっていて、
どくどくどくどく涙の血を流す。
痛みには波があり、いつ塞がるのかさえ、わからない。
余りに傷は深く、いつまでもじくじくと悲しみがにじみ出る。
ようやっと、もぎ取られた部分をつなぎ合わせたとしても、
そのつなぎ目は、ちょっとした事で裂ける。

一度もぎとられたこころが、元通りに綺麗に治る事は無いだろう。
つなぎ合わせて、一見同じ形に収まったようでも、
どうにも埋まらない穴が空いてしまっているから。
それは、彼が持って行ってしまった部分。
それは、彼が私の大事な兄弟として、生きていた証拠なのだけれども。

それでも生きてゆかなければならない。
なんとかつなぎ合わせた、その傷口を保護しなきゃならない。
保護するための薬を、探さなけりゃならない。

身体上の怪我ならば、絶対安静と明らかにわかるけど、
でもこれはすべて内側で起きていることで、
見た目は今までと何も変わらない。

本当は、日常の生活をするので精一杯。

私の方が先に逝くはずなのに、とか、
代わりだったらよかったのに、とか、
生きる気力がなくなるだとか、
そういう気持ちがぐるぐるぐるぐる。


10/25
割と、悲しみを処理できているのではないかと思う。
冷静に、悲しめていない罪悪感とか抜きにして、考えてみよう。

昨日ご飯を食べに飲みに行ったとき、弟のことを忘れて、切り替えて楽しんでいた。
子供とか見ても、弟とダブらせたり彷彿させて悲しくなることは、あまりない。
かなり、割り切ったりすることが出来てしまうタイプなのではないだろうか。

前と一緒のこと、できるやん。
なんや、弟のことで辛さを越えて成長するとか、言うてるけど、そんなんもなくて、
普通に、前と同じ生活できるんかもしれん。

前とまだ違うこと。
ごはん食べに行くけど、相変わらず食べに行きたいとはあんまり思わない。
どんなイベントも、別にそれほど興味が沸かない。
笑い声、楽しげな会話、ぜんぶ、しょうもないとおもう。
何がそんなに楽しいんだろう、って思う。
死ぬ事はあまりこわくないままだ。

夢を良く見る。
弟を食べる夢。
長い長い物語を見ているような錯覚。

心臓が、時々痛くなる。軽い痛み。
そして動悸が激しくなる。
すこし、不安になる。


10/26
耳が聞こえにくい。
息がしにくい感じ。
動悸も時々。
肋骨のあたりが痛む。肋間神経痛?
なんだろう…ストレスで片付けていいもんなんやろうか。

なにもかもなげだしたくなる。
今、悲嘆の回復プロセスのどこの段階にいるのかわからない。
ショック期を過ぎたのか、
受け入れてる時なのか、
引きこもりの時なのか。

悲しいのか、落ち込んでいるだけなのか、
悲しみが浅すぎる自分を責めているのか、
一体なんなのか、わからない。

お腹もしくしく痛む。

日によって違う。

2014年9月4日木曜日

2012年10月11日〜悲しみの迷路

母が悲しんで、悔しがっている。
みんなが支えてあげてね、と言う。
ワタシもささえなきゃ、と思う。
でも、母の悲しみは、怒りは埋まらない。
どうすればいいのだろう?無力感。
そして、ワタシの悲しみは、どこに吐き出せばいいのだろう?

ついこの前、弟が住んでいた会社の寮に、部屋を片付けにいった時の事を思い出す。
どんどん、片付けられてゆく部屋。弟の気配が、消えてゆく。
一緒に片付けてくれた、弟の会社の後輩が、
「さみしいですね」と、ぽつり。
感情を無にして、片付けてたけれど。平気では、ない。

泣いている母の前で、自分も泣き叫ぶ姿を想像する。
そうしたい衝動に一瞬駆られる。
一方で、嘆き悲しんでいてもしょうがない、ともう一人のワタシは思っている。
心が、折れそうだ。
ワタシは母の悲しみを支えられない。救えない。
ワタシがいなくなったら良かったんじゃないかと思う。

ねえ、支えるって何?
支えるって、どうすれば良い?
ワタシの苦しみは、悲しみは、自分で抱えたままにするしかないのか。
夫には、申し訳ないし、真のところは解らないだろうし、と思うと全ては吐き出せない。
受け止めてくれるだろうけど…でも、かなりの負担になると思うと、ダメだ。
ぐるぐる ぐるぐる 思考が回る。