9月16日は、弟の命日でした。
丸三年経ちました。
9月に入ると、ちょっと感傷的になりやすい、というか、
感情が揺れやすいというか。
人によっては、「記念日鬱」という症状になることもあるそう。
命日だけでなくてね、故人の誕生日とかが近づくとね、
処理したつもりの悲しみが戻ってくることがあるのです。
でも、一年づつ、振り返ってみると、思いは変化していってます。
いつかからか、どこからか、
この状況を自然に、受け入れている自分がいます。
肉体を離れた存在は、時空を越えて、いつでもどこでもいること。
死は生と同じく自然なこと。
それが、どんな状態で迎えたものとしても。
生の方がむしろ、奇跡的なことなのかもしれない。
母に電話して、そんなことを話したりしました。
「本でも読んだし、頭ではそう思ったりもするんだけどね…」
と言ってました。
母は、この苦しみは一生つきあっていかなければならない、 と思っています。
ワタシができるのは、そんな母を受け止めること。
息子を亡くした喪失感やつらさは、ワタシにはわからないけれど、
それに寄り添っていこう、と思います。
悲しみは癒えないままでもいいし、乗り越えるもんでもないしね。
でも、それのみに捉われるのではなく、
どのようにつきあっていくかを模索しているようにも感じました。
母が、そんな風に思えるようになったのは、時がもたらしてくれたもの、でしょう。
そして、私自身。
3年経っても学びたいと思っていたら、学んでみようと思っていたことがあります。
そして実際3年が経過し、
今、学ぼうかどうしようか、少し迷っています。
いづれにせよ、いきつもどりつ、ゆらゆらと。
進んでいないようで、進んでいこうと。
時の流れとともに。